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今日見てみるのは、特別栽培米というものの食品表示。
我が家で好んで食している「あきたこまち」です。
■ 有機栽培と特別栽培について
有機栽培と言えるようになるには、有機栽培を始めて2年以上経過した土地でなければならないなどJAS法で決められているため、たとえそれが虫や雑草と戦いながら、農薬を使った作物よりも苦労して育てた作物であっても、すぐに有機栽培した野菜や穀物と言って売り出すことができません。
そのため、有機と名乗るまではできないけれど、それなりに化学肥料を減らして農薬も減らして育てた作物であること伝えられるように、特別栽培農作物という概念も用意されています。
■ 玄米のうんちく
玄米は、白米を食べなれた現代人にとって、触感が白米に比べ固めですし、糠がついたままの味なので、白米より美味しいと思う人は少ないのではないかと思います。
ですが、水にひたすだけで、芽が出てくる「生命」があるのは、白米ではなく玄米です。玄米には「生きる力」が1粒の中にぎっしり詰まっています。
その昔、武士は、この玄米を1日、朝夕合わせて5合も食べていたようです。
玄米以外のおかずは贅沢なものはほとんどなかったようです。
公家や貴族は、お米を白米にして食べることを知り、玄米は食べずに白米ばかり食べていたため、脚気というビタミン不足時に起こる病がはやったと伝えられています。
武士が病に侵されることなく任務をはたしていられたのは、おそらくこの玄米にビタミンなどの生きる力が含まれていたからではないかとされています。
雑味を消すために、本来、生きる力がある食物をそれがないものに変形させたものを食べるという行為は、表面上は美味しいと感じたとしても、身体にとって、優しくない食べ方なのかもしれませんね。
■ 有機というものについてのひとりごと
残念ながら、化学肥料の代わりに有機肥料として使う物により、実際には有機と言えない場合も発生してきているようです。
その昔は、動物の糞が有機の肥料として利用されてきましたが、現在の動物の糞が、有機とは言いにくいものに変わっているようです。
穀物などの動物の飼料自体が、農薬を使った、大量生産されたものでできている場合、それを食した動物の糞が、山や野原に生えている草を食べて育った動物の糞とはもはや異なると言えるからです。これは食している肉もしかりだと思うのは私だけでしょうか?
この事情には、
- 食物や畜産、食品全体をビジネスとして扱ってきてしまった売る側、作る側の経緯
- 安くて美味しい、安全なものを求めるだけの消費者側の経緯
が大きく影響しています。
育てることの大切さとその価値を公平に判断し、全体的に、様々な物事(食物が育つことができるような環境があることから)に感謝する心を持つ教育や仕組みができない限りこの連鎖は継続拡大されていくと予想されます。自分だけ自分の家族だけ良ければそれで良い、という考えの人が増えれば増えるほど、拡大されていくでしょう。
病院もしかり、いかに短時間で病人を診るか、ビジネス中心の診察に偏ってしまったために、根本的な治療にあたることができない医師や病院が増えているのではないでしょうか。
東洋がどうとか、西洋がどうというわけではありませんが、ビジネス的な観点から効率化を求めるがあまり、時間をかけてじっくり付き合わなければ見えない部分をそぎ落とし、最終的には、人間にとって「自滅の道」をたどっているように思います。
「巡り巡って自分の身に返ってくる」食事情と医療事情。もっと自覚を持って生活しないとまずい時期にきているのかもしれません。
「明日の自分は、今日食べた食べ物が作っている」ということを肝に銘じ、今、自分がどんな物を食しているのか、あらためて考えてみていただけると幸いです。
あくまでも「ビジネス」という概念は、人間が人間の間だけで作り出したものにすぎませんし。いつその概念が崩れるかは、わかりません。
最近思うのは、表面的に美味しいと感じるものは、身体に良いものではない。
身体の奥底に眠っている、本能的に欲している物が、身体に必要な食べ物なのだということ。
そしてそれは決して効率的なものではなく、調理に時間がかかったり、育てるのに時間と手間がかかるもので、素朴な味のものが多いということ。できれば、感覚が鈍る前にそれに気づきたいものです。そして何事も「バランス」が重要だということ。決して長生きをしたいというわけではありません。菜食主義者でもなく、何かの宗教の信者でもありません。
生きている間、健康でいたい、そう願うがゆえのお話です。
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